定年退職後、スモールライフを楽しもう!

定年退職後、思い切った断捨離を断行。定年退職後の妻との日常生活、趣味、同居クロネコの様子、脳活回想録など、思いつくまま書いてみます。

脳を活性化する「思い出、回想法」第一弾。 1964年秋、甲州街道で見た、裸足の王者アベベは白いシューズを履いていた。

脳を活性化する回想法を信じて、昔の記憶や思い出を掘り返している。

そんな中で結構強く印象に残っていることを思い出し、文章化してみた。

1964年東京オリンピックのマラソン選手を間近で見た時の話。

 

当時、小学校4年生の私は代田橋~明大前の中間地点付近の甲州街道沿道で、実際に目の前を走るエチオピアの英雄、裸足の王者アベベ選手を見た。そして裸足の王者が白いシューズを履いている姿を鮮明に覚えている。

褐色で精悍な顔をした裸足の王者アベベ・ビキラ選手が目の前を走ってゆく。

 

小学校の学年全員で、その小学校からほど近い甲州街道を走るマラソン選手の応援をするために代田橋~明大前あたりに出向いた。

甲州街道の南側、上り車線の沿道に陣取った我々の目の前をゴールを目指して走るマラソンランナー。先頭で颯爽と通り過ぎて行ったのが、裸足の王者アベベ選手だった。

写真でみるとおりの精悍な顔つき。表情は穏やかで、40キロ近く走っている様子は全く感じない雰囲気だった。まさに王者の風格。

そして何よりも印象的だったのは王者は裸足ではなく、白いシューズを履いていた。大きなシューズに見えた。

もう一つ意外だったのは、写真やそれまでの映像で見た印象より細く、小柄に見えた。

特に足が細く見えたからか、白い靴が余計大きく見えた。

二番手グループには円谷選手がいたと思う。日本のエース君原選手は少し遅れていたと思う。この辺りはかなり記憶が曖昧である。

円谷選手はその後、競技場でイギリスの選手に抜かれて3位、銅メダルだった。素晴らしい結果を残した円谷選手が、その数年後、自ら命を絶ったというニュースは大きな衝撃、ショックだった。悲劇である。

後の記録を見ると、君原選手は8位、寺沢選手は15位。

 

さて、翌年学年全員で東京五輪の記録映画を見に行って、改めて驚いたのがアベベ選手のゴール後の姿。二位に大差をつけて圧倒的走りで優勝したアベベ選手はゴール後、表情一つ変えずに軽いジョッギングをしたあと、グラウンド中央で柔軟体操まで始める余裕。

「裸足の王者」は私にとって完全に「超人」になっていた。

 

このブログを書くにあたり、王者のシューズは白だった記憶が本当に正しかったかどうかを確かめるため、当時の記事や写真を調べた。また、どのメーカーのシューズを履いていたのかも新たに興味がわいてきた。

便利な世の中で、検索すると当時の記事や写真がすぐに検索できる。その中で、大変興味深い記事に会うことができた。

 

東京オリンピックから遡ること3年前の1961年、毎日マラソンの為来日したアベベ選手に熱心にシューズを履いてレースに臨むことを薦める日本人がいたそうである。アベベ選手も何が何でも裸足に拘っていたわけではないらしい。ただ、靴を履いて走ると10キロ過ぎあたりから足が痛くなることが何度かあり、痛みが出ない裸足で走る事をそれまでは選択していたらしい。1960年ローマ五輪マラソンを裸足で制するという、信じられない快挙を成し遂げた王者アベベ。しかし、この毎日マラソンではアベベ選手は靴を履いてレースに臨んだ。

 

アベベ選手に熱心にシューズを履いてレースをするように勧めた日本人はオニツカタイガー、アシックス創設者、鬼塚喜八郎先生だったという記事。

 

1961年6月の毎日マラソンアベベ選手は優勝したが、この時も白い靴を履いていた。

写真をみると1964年東京五輪優勝時の靴と同じメーカーのようだ。

残念ながらアベベ選手が履いていた靴はオニツカタイガーではなかった。

1964年東京オリンピックでも、アベベ選手はオニツカタイガーのランニングシューズを履いて走ることはなかった。毎日マラソン、そして東京オリンピックの時に履いていたのは、プーマのランニングシューズだったことは当時の写真からも間違いないようだ。

 

しかし、オニツカタイガー! 

何という懐かしい響きだろう。

 

中学校バスケットボール部時代、憧れのバスケットボールシューズといえば、オニツカタイガー。ワン&オンリー、これしかないというカッコ良さだった。

東京五輪1964は、もう既に60年近く前の出来事であるが、こうして思い出や記憶を呼び起こしたり、不確かな事を調べているだけでも胸が躍り、血の巡りが良くなる気がする。

昔の話を思い出したりする「回想」は脳活に効果ありを期待してこの先も「回想ブログ」続けでみます。