40年前の11月21日は父親が天国に召された日でした。
本日と同様、本日以上の快晴でした。
そんな父親の命日の朝ドラは六郎の出征。
涙が出ました。
父親は昭和16年~終戦までを東南アジアの戦線で兵隊として4年間過ごしたそうです。
当時としては不謹慎な話ですが、日本は連合軍には負けると思いながら、毎日戦場で過ごし、敵と戦っていたそうです。
自分たちの部隊は負けるわけにはいかないと思いながら、戦っていたそうです。
部隊の負けは、そのまま自らの命を落とす事に繋がると思い、目の前の敵には負けることなく、終戦を迎えることができた、と一回だけ聞いたことがあります。
兎に角生きて帰るために必死だったようです。
終戦後会社経営者となった父は、会社経営を戦争と重ね合わせて考えていたようです。
「状況を見誤ると、経営者は社員とその家族の生活を路頭に迷わせることになる。戦争の司令官は部下の命を失わせることになる。リーダーの責任は重い。」
昨年の今頃は沖縄旅行で、平和祈念公園で若き英霊に、ひめゆりの塔で、若くして散った女学生の英霊に手を合わせていました。
ひめゆり隊は終戦間際の1945年3月に召集されて、前線に送り込まれたと聞いております。その後、5か月後の8月に日本は全面降伏。
当時、沖縄では兵庫県から赴任した島田知事、栃木県から赴任した荒井退蔵氏達が、敗戦が決定的な中で、一人でも多くの民間人の命を救おうと、厳しい軍部や政府の目をかいくぐり、自らの命の危険を顧みずに奔走していたそうです。
軍人さんの中にも、彼らに賛同して、協力してくれる軍人さんも結構いたそうです。
しかし、残念ながらお二人は最終的には、今も行方不明のままです。
もしかしたら・・・・。最悪な結末を考えてしまいます。
日本国を治めていた当時の権力者達は、民間人の命を一人でも救おうという努力はしていたのかどうか?はなはだ疑問が沸いてきます。
終戦5か月前に女学生を最前線に送り込む。
大変悲しい、残酷な判断が、時の権力者達によってなされたという事実。
我々含めて戦争を知らない世代の世の中。
その中で、政治家の多くの方は政治家の家に生まれた世襲議員が多く、庶民感覚をどこまで理解されているか?
そして、どうして政治家になれたのか?という疑問符が付く方もチラホラ。
イザという有事の時に、この人たちの判断や命令が国民の命を左右する事になるのか?ならないのか?と考えてしまう11月21日の命日であり、朝ドラの感想であり、昨年の沖縄旅行の感想であります。
11月21日
※平和の尊さを感じる、11月21日です。