歴史の真実って何だろうと考える時があります。
学校で教わってきた歴史もそうですが、小説で読む歴史。
筆者の見る視点を変えると、何が真実なのか?学校で教わったことと違うようなことも
あります。
歴史的な書物というのを見たことも無いので、分かりませんが、恐らく残っている書物や記録は、歴史の中で勝者となった側が残してきたもので、敗者にまつわる書物や記録は、どこかで処分されている可能性が高いのではないかと、想像しています。
翻って、自分を取り巻く環境も同じようなことが言えると、最近つくづく思います。
最終的に声の大きい人、その組織で最終的にイニシアチブを握った人、こうした人たちの実績や活躍がフォーカスされ、こうした人たちから見た組織の歴史や事柄が、いかにも真実として、様々な場面で正当化されます。
場合によってはOB会と呼ばれる、リタイアーした人達の集まりでも、最終的にイニシアチブを握った人達が、当時の活躍を華々しく語ります。
しかし、本当のところはどうだったのか?
いやいや違うだろう、という事が、小さな世界でも沢山あります。
何だか事の次第が折り曲げられていたり、肝心な場面が抜け落ちていたり。
でも、声の大きい人、イニシアチブを握った人が語ったことが真実になります。
ましてや、大きな歴史の世界で、敗者となった側の記録が全て廃棄されていたら、真実は闇の中なんてことは沢山あるのかも知れません。
先日放送された、菅田将暉さん主演のドラマ、主人公の久能整君の言葉、真実は生きてきた人の数だけ存在する。しかし事実は一つです。
何だか、妙に腑に落ちる言葉だと、感心してしまいました。
9月19日
※2022年11月沖縄。記事とは関係ありませんが、琉球王朝の苦難の歴史なども、
真実は一部闇の中?